Inaugural Issue | 創刊号

Invited Foreword | 巻頭特別寄稿 : ゲームという陽炎を前に

Kondō Kōshi | 近藤 功司

How to Cite:

Kondō, Kōshi. 2019. “Gēmu to iu kagerō o mae ni” [Before the Heat of the Game]. Japanese Journal of Analog Role-Playing Game Studies, 0: 3-4.

引用方法:

近藤 功司. 2019. 「ゲームという陽炎を前に」『RPG学研究』0号: 3-4.

DOI: 10.14989/jarps_0_03

[1.1] 学であれ,論であれ,思考の対象となる何かが,一定の塊として捉えられるには,言葉による他の何かとの区別,さらには,計量による比較の可能性が同時に必要であろう.

[1.2] 日本におけるゲーム研究の歴史は,多くの先達の業績を考慮しても,まだまだ端緒についたばかりという見方もできるが,そもそも,ゲームとは、その性質において他の何かと区別可能で,かつまた,何らかの単位によって計量可能なものであろうか.

[1.3] 日本語のゲームという言葉は,英語の“game”に由来するのだと思うが,日本語に定着するにつれ,そこには,異なる4つの意味が含まれてゆく.

[1.4] 第一の意味は,ゲームの用具である.話者が「そのゲームを取ってくれ」と言うとき,そこには、用具としてのゲームが立ち上がる.20世紀以降に定着したゲームを個人の創作物とする考え方,さらに進んで,近代社会がそうした作品を商品化し、ひとつの箱に入れて販売し始めた事実にあって,ゲームという言葉は「ゲームの用具一式」を強く意味するようになった.

[1.5] 第二の意味は,ゲームの一試合である.野球の試合などで「明日のゲームは負けられない」などとプレイヤーが言う場合は,ゲームの用具ではなく「一回の試技」あるいは「試合」を表している.これには,審判やイベントオーガナイザーによって定義されるなんらかの始まり(試合開始)と,なんらかの終わり(試合終了)があるのが普通だが,単なるゲーム的のジレンマの確認と,それに向かい合うプレイヤーの行動,そして一回の価値のある判断,解決が含まれるだけのこともある.たとえば,新聞などで貿易戦争を取り上げる場合に「大統領はこのゲームの中で,さらに厳しい姿勢を示す構えだ」などという風に書く場合だ.

[1.6] 第三の意味として,ゲームは,ゲーム前にプレイヤーが合意するルールを示す場合がある.「ポーカー,ブリッジ,将棋、囲碁という異なるゲームがある」という場合には,ルールそのものを,ゲームと表現していることになる.

[1.7] さらには,新聞などで少年犯罪などを取り上げるときに,「ゲーム感覚で…」などと表現することがあるが,この場合は,ここまでのいずれにも当たらず,単に「行為の結果責任を行為者が取らされる危険が少なく,もっぱら娯楽的な興味で行動すること」ぐらいの意味であろう.

[1.8] こうした意味を漫然とはらみながら,ゲームは今日も,誰かによって創作され,誰かによって継承され,誰かによって改善され,誰かによって遊戯を持ち掛けられ,誰かによって試技され,誰かによって販売され,誰かによって無視されている.

[1.9] それぞれの意味を峻別せず,文脈で使い分けて困らない程度には,日本語の「ゲーム」という言葉の意味は軽い,のだが,また考えようによっては,カタカナで書く外来語の割には,驚くほど多様な意味を内包していると言えるのではないか.

[1.10] それぞれを,用具,試合,規則,遊戯と言い換えてみた場合,そこにはカタカナで書くゲームの軽やかさはなさそうだ.

[1.11] 前述の通り現代では,創作された一つの規則が,一つの道具箱にセットされて,一つの商品として販売されている.これらは購入され,創造的にプレイされて,そこにひとつの体験をもたらすが,いったいそこでは,何がゲームなのであろう.

[1.12] オンラインビデオゲームの登場によって,遊戯者は,なにがしかの参加料と引き換えに,バーチャルな空間でアバターを操り,ただひたすらに行動や交流だけをすることができるようになったが,それらは何をもってゲームと名乗ることができるのか.あるいはまた,一本筋の映画が,機械的な乱数で,止まったり進んだりを繰り返すだけの装置を前にして,我々は主体性を感じることがあるが,それらはゲームなのだろうか.

[1.13] 一方,一個のダイスを振って,その出目を見るとき,そこに神の声を聴くものがいる.そのあまりにも美しく静かな経験と,それらのゲームとは果たして同質のものなのであろうか.

[1.14] センサーと物理演算で立方体の停止の有様を計算することは,今日容易かもしれないが,じゃんけんで相手が出す手を予想することは未だできない.では,相手が投げたサイコロの目は予想できるものだろうか.そんなサイコロに思い思いの行動を託す者たちがいる.そんな不確かなものが複雑な因果関係を経て勝敗に繋がっていくゲームという舞台で,いつも勝利する者がいる.それはなぜなのか.あるいは,なぜいつも自分は負けてしまうのか.

[1.15] ゲームはそういう複雑な宇宙の外縁を表す言葉でもあり,いつも私たちの問いかけを待っている.

[1.16] このように,定質的なゲームの定義だけでも,大きな陽炎の前に,立ちすくまざるを得ない.つまりそれらは豊かなのだ.

[1.17] この豊かさを支えている実際の何かを,私たちは見極めたいと思う.

[1.18] ときに,測り,ときに,言葉の型紙をあて,ときに,写してみる.その目的は,人によって異なっていてもいい.ゲームに勝って,賞金を手にするために確率論が発達した故事のように,ゲームを考えることが,ゲームがいま在る分野とは違った世界に適応できる成果を生むこともあるかもしれない.だが道のりは険しい.私たちは未だ,ゲームを表す言葉を持たず,ゲームを図る単位を知らない.人類がこん棒のような道具をもってアフリカのサバンナで産声を上げたとき,その道具は,いかにも弱弱しく,あたりを睥睨する屈強な猛獣たちの嘲笑をかったのかもしれない.だが,確かに歴史はそうして始まったのだ.

[1.19] ところで私は,実務家としてRPGの紹介・普及・プロモーション,後に新作のデザインに携わってきた経歴を持つが,その経験から,ゲームは,それを遊ぶ人と,ゲームそのものの相互作用で成立すると考えている.

[1.20] 創作された「ゲーム」は,それまで何かを遊んでいた「人びと」の間におかれる.受け入れられるものもあれば,消滅するものもある.環境からの影響でゲーム自身も違った形に成長していくが,人々もゲームによって変化していく.

[1.21] たとえるなら,両者は,土と種子のような関係だ.

[1.22] 自分の分野でいえば,日本におけるRPGの始まりは,製品の輸入であった.

[1.23] それは,外国文化の受容であり,そこには解釈があった.

[1.24] 黎明期のRPGが日本のゲーム愛好家という土壌のなかでどのように育っていったかを書くには,紙面が足りないが,ある点では元の世界と同じことが成立し,ある点では非常に興味深い変化があった.そして変化は,地下水のようにゆっくりと元の地に還元されていく.

[1.25] 黎明期に,ゲームと人びとが,互いに手を伸ばしながら絡まり合っていく姿は神々しいものであった.

[1.26] ビデオゲームのように「硬い」種は,環境からの影響を受けにくく,比較的変化せず遊ばれていくようだ.その世界では,創造主の力が強く,ゲーム評論は強く彼らの意向を反映する.バイヤーズガイドにおけるメーカーチェックなどはその一例だ.

[1.27] それに対して,ボードゲーム,トラディショナルゲーム,RPGなどは,受容される側の影響を受けて,かなり強く変化していく.つまり「しなやかな」性質をもつ.近代社会は,個人による思想の表明を善としたため,ゲームもまた個人の創作物として認識されたが,実のところそれがどう受け入れられていったかは,追跡の調査をしないとデザイナーには分からない.

[1.28] そのため評論はたびたびの危機に陥った.一方で創造者による強い干渉があり,他方で圧倒的に茫洋とした受け手の意向がある.前者には,経済活動への配慮が必要であり,後者には,多様な個人の思想へ分け入る勇気が求められた.つまり,必要なスキルが違うのだ.

[1.29] 最近の通信技術の進歩が,こうした状況にさらなる一石を投じる.

[1.30] 武器を得て我々は前に進むが,ゲームは,いよいよゲーム自身の姿を現し始めたといえよう.各地から続々と報告がなされ,フィールドワークは充実のときを迎えている.理論の徒にとってそれは豊穣の地だ.しかしながら,通信技術はそれ自体がゲームの一部を成し始め,観測するものが観測されるものの一部であるという,ゲーム研究の陥穽もまた露呈しつつある.

[1.31] 果たして歴史はどこへ向かうのか,新しい論理の矢で,そこに立ち向かっていこうと思う.